皆様、お久し振りでございます・・・! (^_^)v
母が亡くなりまして、ようやく4ヶ月が経ちました・・・。
納骨を済ませ、家中を整理したり、掃除をしたり、ある物は処分をしたりで・・・昨年は、ジェットスピードで過ぎていきました★
・・・何しろ、私こと・・・山野亜紀の家は物が多い家のようで、、片付け物をするのも一苦労なんですね。 (^_^;)
●・・・随分前に、とある50代の主婦の方も、仰っておられました★
「あの物入れに入っている物は、いつかは絶対に(!)片付けたいと・・・決心はしているんです。でもいざ、片付けようと思うともう、どうしても気力が出なくて・・・」
彼女のご家庭は・・・転勤族(!)であったそうで、当座要らない物を「とある物入」に入れ続け(!)
・・・目白が終(つい)の棲家になったのだそうですが、暮らしている内にそこは・・・ここ20年以上手を付けていない「封印の物入!」と化してしまい★
どうにも・・・未だに怖くて、手を付けられない・・・。 (T_T)
「封印の物入れ」も怖いですけれど、目の前にあるし、いつも「見ているけれども、使わない物」なんてのも、困ります★ (-_-;)
生前の母と、今までに・・・随分と片付けてきた積り・・・なのですが★
たとえば、蕎麦どんぶりは11個(!)あります。
取り皿は10枚以上、湯呑茶碗(お客さん用も含む★)やコップは合わせたら40個くらいは軽く、あるでしょう・・・★
形が小さくて、使い勝手が悪いものやら、しゃれた頂き物のワイングラスにシャンパングラス、そして何だか良く判らない・・・グラス達。
こんなに持っている筈なのに、自分はついつい・・・100円ショップで買った食器なんかを愛用していまい、これらの食器は目の前にあっても(!)使わない・・・。
焼き魚を乗せる皿やら、小鉢に大鉢、とにかく、もうもう・・・。
「一体、誰がこんなに食器を使うっていうのよぉ~・・・」 (T_T)
・・・と、叫びたく程に存在をするのです。
母亡き今は、2人暮らしなのにねぇ・・・。 (^_^;)
●振り返ってみれば・・・私の実家自体が、3軒が合体したような家なんです。
私こと山野亜紀が物心付いた時には、同じ敷地に家が2軒並んでいて、母宅と、母の両親の家(以降、隠居屋)がありました。
・・・その後、隠居夫妻が亡くなったので、そちらは「まことに小さな・・・単身者用のアパート」へと様変わり。
それとは別に、私の父の仕事場があったのですが、父が亡くなったので引き払い、結局・・・母屋には、3軒分の布団や食器達(!)が溜まる事となりました★
さて、祖父と祖母は明治の産まれで、両親は昭和一ケタ年代の産まれです。
実家のある小金井市に来るまでは、隠居夫妻はそれまでを東京の中野区に住んでおりました。
・・・あの東京大空襲の最中(さなか)、戦地に赴いた息子の帰りを待つ為にもと、疎開もしなかったのだそうです。
運良く家は焼け残ったものの、息子は還らぬ人となりました。
隠居屋にあったモノ達は、亡き母にとっては戦友なのでしょうか。
・・・博多人形が2体に、角樽が一つ。
そして数多くの「こけし」が、私の仕事場には存在します・・・。
これらは隠居屋の玄関だとか、母屋の箪笥の上に永らく・・・飾られていた物なんです★
「・・・しっかし、この人形とか酒樽とかって一体、何時頃からこの家にあったんだ・・・???」
この人形やら、こけしの家族を、私は愛する事が出来るのでしょうか・・・?
ついでに発見した、この「木彫りの熊さん」は一体。いつの頃から・・・この家にいるのでしょうか・・・。
母が亡くなってから、一階に「自分の部屋兼仕事場」を移した私なんですが、色々と・・・うーむ、うーむといった感じなのでした・・・。
●そんな折、「母の妹夫婦」に挨拶に行く事になりました。
亡き母の葬式には双方共に・・・足が悪くて、来ては戴けなかったので、こちらから出向く事にしたのです。
妹夫婦は、建設業からトラバーユして転勤族になったそうですが、そうなるまでは確か、隠居夫婦と共に中野区で同居をしていました。
・・・何か、知っているかもしれません。
聞いてみると博多人形は、「母が産まれた記念」にと、博多で買い求められた物である事が判りました。 (^_^;)
・・・叔母さんいわく。
「お姉ちゃんは、小学校低学年までそこで育った人だし、中野に越しても、あの人形は玄関に、ずーっとあったと思うわ」
・・・ちなみに母は、享年78歳だったんですが★
「・・・すると、この人形達も・・・東京大空襲の誉(ほまれ)ある(!)生き残り達なんですね・・・」
余りの歳月の長さに、あやしく・・・声が震える私です・・・★
叔母さんはまた・・・こうも、続けて下さいます。
「角樽の方は何だか、お爺ちゃんの仕事のどこかの(!)建築完成記念にと、もらったものだと思うわ」
・・・・・・・・・・・・。 (-_-;)
●私の母方のお祖父さんの仕事は、国家公務員でした。
全国津々浦々を歩いては、公民館だとか、国立の学校だとかを建築する現場監督サンだったそうです。
・・・なので、国会議事堂を建てる時の「現場監督の1人」でもあったそう。
ですが、その祖父も亡くなってから20年以上経ちました。
・・・母だって、享年は78歳ですもの★
人形と酒樽は、それぞれ年代物だと判ったところで、もぉそろそろ処分をしても、宜しいモノでしょぉか・・・??? (゜ _゜)
ちなみに熊の置物は、叔母さん夫婦の結婚記念品(2人共、平成19年現在で77歳★)であったそう・・・。 (^_^メ)
●それだけでは、ありません。
お祖母ちゃんの喪服(夏物)に、お祖父ちゃんの行灯袴。
私の父が、家で寛ぐ時に着ていた着物たち・・・等々に加えて、洋服は勿論のこと、使いかけの調味料やら、買い置きらしい醤油やら味醂やら、カレールゥ・・・などなど。
ついでに「部分入れ歯洗浄剤のパーシャルデント♪」を、 90粒(!)見つけた時には、倒れそうになりました。 (^_^;)
・・・そんな中、今回のお話の主役である三味線も、あの東京は中野区の大空襲の戦火の中を、掻い潜ってきた勇姿であったのです・・・。
家を建て直す事になった折に、母は思い切って・・・色々と処分をしたようです。
母方の曾御祖母さんが、旅に出る時に所持していたという「護身用の刀(明治に入って、刀を持つ事が許されなかったとかで刃引きしてある)」であるとか、「軍刀(母のお兄さんは、少尉さんであったので・・・軍人は必ず、一振りを腰に帯びるそうですが、二振持っていたので形見に一振りを置いていったのだとか★)」やら。
とにかく値の付くものは、この時とばかりに処分をしました。
着物も幾つか出そうかと思ったそうですが、こちらは値が付かなかったそうなのです。
母の祖母のモノだったという長唄(稽古用)三味線も、その時は買い手が付かなかったのでやむなく、そのまま新居にやって来ました。
その後、再び・・・私が手に取るまでは、永らくこの三味線は・・・こけし達と共に客間にありました。
さて林邦史朗の振付けた殺陣と、日本の武術を融合させた「武劇ショー」に華(?)を、添えようと・・・私こと山野亜紀がやる気になって、三味線を修繕(!)
・・・子供の頃に、母の計らいで長唄の先生に付いていた時期がありましたが、大人になってからは自分で決めて、近所の地唄のお師匠さんの所に通い始めました。
ところで、大人になってから三味線を見ていて、ずーっと・・・不思議に思っていた事があるんです。
三味線のこの部分(写真上・参照)なんですが。
ギターだったら、一本、橋渡し(ナットの部分ですね★)みたいになっているのに、何故に三味線の「一の糸の部分だけに!」それがないのでしょうか。
年代物だから・・・?
やっぱり東京大空襲の折に、何度も何度も・・・防空壕に運んでは取り出しを繰り返していたそうですから、何かがあって、それで破損しちゃったのかなぁ??? (^_^;)
●地唄の稽古では、箏も習う事にしていたので、こちらの方は・・・三鷹駅から20分以上も(!)てくてくと歩いて、加藤邦楽器さんにて買い求めました。
「・・・でも、駅からこんなに歩く場所だと、例えば気楽にのぞいてみたりとか・・・買い物のついでに覗くとかって、とっても無理な相談だよねぇ・・・」
こんな時に、頼りになるのが、インターネット♪ のハズですが★
三味線屋さんのHPをいくつか渡り歩いてみましたが、ビギナーさんには何だか・・・今ひとつ理解が出来ない事も、いくつか★ (+_+)
・・・たとえば、三味線の糸には「一の糸」『「の糸」「三の糸」の3種類しかない(!)と・・・私は、ずーーーっと(!)思っていたのですが(!)
ところが例えば、「三の糸」にも種類が幾つかあるようです。
・・・また糸の素材も、テトロンのものと、絹糸と2種類あって、どれを購入すればよいのか弱りきってしまった私です★
・・・お師匠さんにも聞いてみましたが、彼女は地唄オンリー♫の方なので(長唄三味線の糸の事についてまでは)知らないと言うのです。
長唄、新内、地唄用などなど。
・・・三味線の大きさまで違う!という事も、大人になって初めて(!)知りました。
三味線は、・・・しかもウチに昔からありましたから、これだけだとしか思っていなかったので、「実家の三味線は、長唄用」である事さえ、自分で修繕に出してみて・・・初めて知ったのです。(^_^;)
当座しのぎに、糸は師匠の使っている物(つまり、地唄用)を分けてもらっていましたが、一応は・・・楽器が長唄用なのだから、ここはやっぱり糸だって・・・そちらに合わせるべきなのではないでしょうか・・・???
「・・・そういえば、楽譜とかも気楽にちょいと買えるお店って、東京には存在するのかなぁ・・・???」
疑問は尽きない私ですが、日本橋のデパートに「邦楽の店」が入っていると聞いて行ってみましたが、そこも既に店仕舞をした後(!)でした。 (T_T)
・・・うろうろとする内に、地唄のお師匠さんの都合で・・・今度は、稽古が長期のお休みをする事となってしまい、母が亡くなっがりしてもう、三味線どころではなくなってしまいました・・・。 (+_+)
●ところが、NHKのすぐ側に、和楽器製造をしている所を発見したのです(!)
邦楽器を作っているお店に、小物は置いているのでしょうか・・・???
・・・ここで突然なんですが、2006年11月のドラマ番組「小春姐さん奮闘記(十朱幸代・主演)」に私が、地方役として出演をした事がありました。
そこで、私の三味線も番組に出演をする事になったのです♡
・・・撮影現場までは、ソフトタイプの三味線ケースに入れて運んでいたのですが、現場でアドバイスを戴きました。
「もしいつか、海外公演をするつもりだったら・・・三味線なんかは皮が破れたらどうしようもないから、飛行機内には手荷物として持ち込めるように、折ると良いわ」
・・・私の三味線は、どうも3分割に出来る機能(折る)があるらしいのです。
折れた場所を保護するべく、「相木(あいぎ)」という物があるそうなんですけれど、空襲の折にでも紛失をしたものか、とにかく家にはありませんでした。
「和楽器工房に頼めば、出来ると思うわ」
との言葉を胸に・・・意を決して、和楽器工房に足を踏み入れる事にしたのでした。
●何しろ、「相木」という名前もうろ覚えで★
・・・何しろ、三味線の各部の名称だって、ろくに判ってもいませんでしたし★ (^_^;)
それでも何とか・・・しどろもどろに申し出てみた所、店のご主人は快く引き受けて下さいましたので、まずは予算を聞いてから後日、三味線を持ち込む事にしました。
・・・何でも、この店の創業は明治時代で、今では三代目がまた兄弟でやっているお店らしい・・・。
さて後日、三味線を工房に持ち込んだ時に、そこは好奇心の強い・・・私の事でございます★
かねてから思っていた質問を、口にしてみました。
「これが、曾御祖母さん・・・お富サンの三味線なのですが、これは一体、いつ頃の時代に作られたものなのでしょうか?」
ご主人、三味線の具合を見ながら。
「この形だと、明治の中期くらいから、大正一杯に作られていた形だと思いますよ」
と、教えて下さいました。
実は、江戸末期の古い物かもとちょっぴり期待をしていたので、私は何だかガッカリ★ (^_^;)
では、江戸時代と明治の物では一体、どんな風に形が変わってきているのでしょうか。
「例えば、この三味線は3分割出来ますけれど、更に古い物は2つにしか折れません」
「へぇ・・・」
「音も、現在のようには、そうは大きく音が出せなかったみたいですよ」・・・と、ご主人。
「何故ですか?」
「おそらく、音をそう大きく出す必要が、なかったのでしょう・・・」 (゜_゜)
私は、更に聞いてみます。
「私の師匠は、低い音に合わせているという調子笛を持っているのですが、私もそれが欲しいんですが、こちらにはありますか?」
・・・私が持っている調子笛(高音用)なんですが、俗に「トンボ」と呼ばれているモノです。
主に「トンボ社で製作されている笛」だからだそうで、ウクレレやらギター、バイオリンの調音にも使えるらしく、それは・・・使える方には良いのでしょうけれど★
「でもこの笛、ビギナーさんには何だか、今ひとつ判りにくく・・・」 (^_^;)
笛は、インターネットで見ると「高音用」と「低音用」があるようです。
師匠と同じやり方で調音が出来るように、低音用が欲しかったんですね。
●ところが、ご主人曰く。
「ご存知の事と思いますが、音は三味線の場合、三の糸から合わせるんですけれど・・・」
「え、えぇええええーーーっ!?」
・・・私の声に、ご主人びっくり★
胸を押さえながら・・・しどろもどろに、申し出てみる・・・私です★
「私の師匠達(子供の時と、大人の時で2名)は、笛を吹いて、まず一の糸を合わせていたので、ずーっとそうするものだと信じていたのですが・・・」
師匠達は、振り返れば二人共「低音用トンボ♪」を使っていたと思うのです。
「ですが・・・この調子笛の場合は、高い音の方に合わせて作ってあるますよね?」
「・・・はぁ」
「三と一の糸では、1オクターブ違います(!)から。なのでまずは、高い方で合わせておいて・・・それから1オクターブを下げて、一の音を調節すればラクに出来る筈ですよ」
「な、なるほどぉ・・・」 (+_+)
●逆もまた、真なり。
上の音を吹いて、下の音から合わせようとするから(音感に自信のない人には)難しいのであって。 (^_^;)
・・・まずは高い音を合わせてしまってから、そこから1音下げて合わせるならビギナーにも容易に可能・・・なのか、な・・・???
三味線ビギナーの道のりは、まだまだ、どんどこと続きます。
「三の糸を弾いた時、一の糸が共鳴すれば、とりあえず音は合っていますよ」(この場合、1オクターブの高低が、という意味)
「え、えぇぇええっ!!??」
・・・この辺りでご主人、私の事に慣れてきたご様子です・・・。
「三味線の、この部分。一の糸の部分が欠けて(!)いますよねぇ」
・・・それは私が、永らく「東京大空襲の戦災時に、破損をしたのかしら・・・?」と思っていた部分の事でした。
「この部分の名称を、さわり・・・と言います」
「・・・はぁ」
「音が共鳴するよう、わざとこうして作るんですよ」
「へぇ~~♪♪♪」
もう終了をしてしまった番組ですが、「へぇへぇボタン」を何十回と叩きたいくらい(!)の、私だったのでありました・・・。
「こういう造りは、江戸末期から明治の初めに出来たと、言われているんですよ」
さて、これ以降・・・私の恥ずかしくも、胸を轟かせた新・事実(!)は次回に続きます・・・。
知っていた方は、お笑い下さいませ。
「知らない」というのは・・・まぁ、こういう事なんですねぇ・・・。
目から、マジメに(!)鱗ものでした。 (-"-)