お江戸の作法教室

第八話 里絵と殿さま

「ともかく。屋敷に入ろうではないか」
 先に立って門を潜り、成政候はさっさと、波和湯家の玄関へと向かう。
 ・・・家に仕えている者達の方が、余程に心得ているらしい。
 成政候の足を清めにかかるやら、何やら・・・見ていて、やる事にぬかりがない。

 下男が風太郎に気が付いたところで、早速、あの方が何時頃ここを訪ねられたのかと、聞いてみた。
 すると。
「たしかもう・・・。日は、暮れていましたかなぁ・・・・・・」

 初めてあの方に気が付いたのは、風太郎の妻である里絵・・・であったそうな。
 屋敷の玄関の前で、馬を引いた男が、何やらウロウロと探し物をしている様子。

 ・・・こちらから声を掛けてひとまず、客人として預る事にした。
 そして時刻をみると丁度、夕餉時である。
 里絵は思い悩んだ揚句、波和湯の家で支度をしていた極々普通の夕餉で、客人をもてなした。
 客人用の食事の支度をする余裕が、なかったからなのだが、それを客人は、それはそれは楽しんで摂られたらしい。
 ・・・そして湯にまでも、入ったのだという話である。

 これを、どう解釈したものか・・・。
 難しい顔をした気儘之介が、おりよに足を清めてもらった処で、初めて里絵が顔を出した。
「これはこれは、里絵殿。・・・相変わらず、お美しい・・・」
 振り返って気儘之介、そこは如才ない。

 ・・・もともとが風太郎を、波和湯の家に世話をしたのが気儘之介である。
 当然、里絵とは、顔を見知った仲なのだ。
 気儘之介はまず、波和湯家の前の当主である・・・つまり、里絵の父に当たる春重(はるしげ)の悔やみを述べた。
 ・・・葬式にこそ出られなかったものの、丁重な悔やみの手紙と、法外な香典を貰っていたのでそこは、夫婦二人でその礼を述べ。
 そして里絵は、風太郎の前にも手を付いて頭を垂れる。
「お帰りなさいませ。お迎えをするのが遅くなりまして、申し訳ありませぬ」
 風太郎は下男の手を借りず、足を清めようとしていた所であった。
 ・・・もともと婿入りしてからも風太郎は、自分の事は自分でやろうとする。
 そこが、里絵には気に入らないものか、急に里絵が、その役を買って出た。
 この儀式はいつも、あったり、なかったりするのだが・・・。
 友人の手前、風太郎は嫌だった。
 しかしながら、以外に里絵、言い出したらきかない所がある。
 ・・・結局は風太郎が負け、里絵に聞いてみるとあのお方は、今は客間で火に当たっているらしい。
「・・・湯にも入られたのですから、客間でお待ち戴いてはと申し上げました。ですが気儘之介さまの事が、大分気になっておられるご様子で」
 結局、四半刻(三十分)程か。
 門の辺りで、二人の帰るのを待っていたという。

 ・・・気儘之介は、夫婦が語り合う様をじっと見ていたが。
「では俺もあの方のように、湯にでも入らせてもらおうか」
と・・・、言った。
 とんでもない、と。
 言いかける風太郎を遮って、里絵がさわやかに微笑んでみせる。
「どうぞごゆっくりに。あのお方のお相手は、私と主人が承りますから」
 ・・・・・・絶句・・・した、気儘之介をおいて。
 足を拭いた風太郎に、里絵はぽんと手を打ち鳴らしてみせた。
「さぁ。急ぎませぬと、あのお方をお待たせする事になります。お早く、お召し変えを」
 それは、そうだと風太郎が受けて、急ぎ足に玄関を上がりかけ。
 ・・・そして思い出したように、不意に・・・友を、振り返った。
「おい、気儘之介。あ、様っ」
 ・・・思いもかけず、絶句したままの気儘之介を、風太郎は。
 いつもの少し自信のなさそうな笑顔で・・・見詰めて、言うには。
「せっかくです。・・・ごゆっくり御寛ぎを」
 言い終えて、この家の主。
 あたふたと、走り去って行く。
 ・・・その時。
 気儘之介は、あぁ・・・俺は、この男に迷惑をかけているのだな・・・と思った。
 思ったが、あの男とすぐに話が出来る自信がなかった。
 それを風太郎が、悟っていたのかどうか・・・・・・。

 着替えは自分でするという風太郎と別れて、里絵が気儘之介を、湯殿へと案内をした。
 気儘之介が、ふと・・・里絵の方を、振り返る。
「そうだ。・・・あの人の事を里絵殿は一体、何処で知ったのかな」
 藩主の顔など。
 里絵程度の身分の者が、知っている筈がない。

 気儘之介と春重。
 つまりは里絵の父親だが、この二人が知り合ったのは、江戸のさえない蕎麦屋であった。
 蕎麦屋に将棋板があったのが、この度の二人の運のツキ。
 二人は実力伯仲で、仲良く将棋で鎬(しのぎ)を削る仲となった。
 仲良くなってしまえば、仲良くなるほどに春重は、気儘之介が欲しくなった。
 身分を知らなかったとは言え、娘である里絵の婿にと望んだのは、当然のなりゆきであろう。
 ・・・したが故に、里絵と気儘之介は互いを見知る仲となった。
 ゆえに、気儘之介の身分をも知る事になる。
 波和湯の家が、江戸詰めのお家柄であることを、春重は何気なく気儘之介には語っていた。
 この程度の・・・と言ってしまえば、身も蓋もないが。 この程度の身分の、しかも江戸詰めのお家柄の娘で、どうやって藩主を見分けたものだろう・・・。
 今更ながらに、里絵の聡さ(さとさ)には、舌を巻く。

 ・・・安毛良(あっけら)藩は、たしかにのどかで、良い藩ではあるのだが。
 なかなかに米の収穫高がはかどらず、未だ、努力を重ねている藩でもある。
 夏の7日ほどの日照りが続けば、その日以外は雨が降っても、収穫には変わりがない・・・と、百姓は言うが。
 逆にその7日間を外してしまえばもはや、どうしようもなくなってしまう。
 米の収穫によってはその年の、国力にも関わってくるのだ。
 ・・・したが故に。
 藩主・葉々成政(ぱっぱ・なりまさ)候は、江戸には必要以上の長居はせぬ。
 江戸詰めの、・・・しかも、一介の。
 下っ端役人の娘ごときが、藩主の顔など、知ろう筈もない。
「・・・はい。それは・・・・・・」
 ・・・さすがの、里絵も。
 一目で・・・という訳では、なかったと言う。

 昔この家には、奈津・・・という女中が、仕えていた。
 今はもう里に帰ってしまったが、甘味好みの里絵に、珍しい土地の菓子を送ってくれたのだ。
 ・・・同じく甘い物好きの、隣りの奥方にもお裾分けをと。
 里絵は、届けたついでに一喋り。
 帰って来た所で屋敷の前に、馬を引いた男が立っている・・・のを、見た。
 男は里絵にすぐに気付き、この家は波和湯の家かと尋ねる。
 そうだと言うと、もうすぐお主の主人ともう一人が、ここへ来ると男は言う。
「この家でその人を、待たせてもらいたい・・・と、仰るので」
 よくは判らないが、外の寒さで凍えさせるのも気の毒と。
 ともかく里絵は、風太郎の帰りを待つ事にして、下男に、隣家へ馬小屋を借してもらえるよう、交渉に行かせた。
 ・・・何しろ波和湯の家には、馬小屋はない。
 先程の菓子の効果か、隣人は快く、その件を引き受けてくれた。
 ・・・また明日にでも何か持って、御礼に参りましょう・・・。
 安堵して里絵は、初めて。
 ・・・馬の鞍に、家紋が掘り込んである・・・事に、気が付いた。
 見ると男は、苦笑いをしている・・・。

 浜茄子の紋、いつもより遅い風太郎の帰り。
 そして尋ねて来るという・・・客人。
「これは気儘之介様が、悪さをなされたのだと、私は思いました」
 里絵が、鈴を振ったような声でころころと笑って。
 気儘之介は思い切り、気まずい顔をしてうなだれた・・・。

 それでは、ごゆるりと。
 里絵は言って、素早く踵を返した。
 何しろ、気儘之介も客人ではあるが、この家にはもう一方、あの方が居らしている。
 この家の主の妻として、色々と采配を振らなくてはならぬ。

 里絵の気丈な背中を見送りながら、気儘之介はひとつ、溜息を付いた。
 ・・・それにしても、と気儘之介は思う。
「結構な、・・・夫婦(めおと)振りではないか・・・」
 二人が祝言を挙げるより先に、母である菜花と供の者を連れて、気儘之介は国許へと旅立っている。
 なので、二人の夫婦振りを見たのは、今回が初めてで・・・そして。
 風太郎は、何のかのと言いつつも、幸福そうに気儘之介の目には映った。
「・・・・・・喜ばしい・・・」
 案内された風呂場の中で、気儘之介は一人、目を閉じる。
 ・・・友の為には、喜ばしい事ではある。
 共に、喜んでやるべきことなのである。
 それなのに・・・気儘之介、何とはなしに、つまらかった・・・・・・・・・。

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