お江戸の作法教室

第十二話 婿の務め

「・・・む、どうしたのだ、風太郎」
 上様の声に、我知らず物思いに耽っていた風太郎。
 答えに詰まって、もう一度平伏をした。 

 竹馬の友の過去を知って。
 ・・・その母の、昔を思って。
 二人には感情移入をし、憐憫の情は持てても、この目の前に在らせられる上様の気持ちには、全くもって察しが付かない。

 ・・・・・・上様の御手の付いた女子(おなご)であった菜花は今は、安毛良(あっけら)藩に住み暮らしているという。
 農家の暮らしや、下々の生活には想像はできても、お城の生活など、風太郎にとってはまるで、あの世のこと・・・。
 菜花が慣れない暮らしの中で、寂しくはなかろうか・・・。
 肩身の狭い思いをしてはいないかと、そのような事は思い浮かぶ事も出来るのだが。 上様は妻である菜花と、一体何を話して良いか、わからぬ・・・という夫婦(めおと)生活を送っているらしい。

 実は・・・風太郎。
 波和湯家に入り婿をしてから、それなりに紆余曲折はあった。
 お役目だけでは、ない。
 人は仕事をしながらも、食べては眠り、風呂に入り・・・排泄をし。
 つまりは、生活を営まなくてはならぬ。
 何しろそれまでの風太郎の生業(なりわい)が、穀潰し・・・。
 振り返れば六歳の折には、もう小舅だった風太郎。
 子沢山の長兄の嫁に、迷惑をかけてはならぬ・・・とは真剣に、思ってはいたものだ。
 ・・・だがしかし、思うのと叶うのでは、あまりにも隔たりもあるものだ。
 そんな幼少期を、過ごしたせいなのか・・・。

 風太郎自身、妻となった里絵と普段、何を話して良いのやら分からない。
 共通の話題である気儘之介の話をしたとて、口下手の風太郎の事ですぐに、話題が尽きてしまう・・・。
 女子(おなご)を楽しませる手管など、風太郎の辞書には存在しないのである。

  お役目の話は家では出来ないし、したくてもまだ、何が何やらわからない。
 最近幾らか、平仮名だけは読めるようにはなった・・・。
 しかし、書類に漢字は付き物である・・・というか、風太郎の下に来る書類は大体が漢字ばかりという、不吉な物である。
 毎度周囲から失笑を買い、同僚には蔑まれているのを、いくら何でも日々、里絵に語り聞かせられる筈がない。
 ・・・風太郎にも一応、男の意地というものがあるのだ。

 夫婦になったばかりの頃はそれでも、義父上が幾らかは助けてくれてはいたのだが。
「・・・・・・あれは、どうしたのか」
 ・・・物思いに沈んでいた、風太郎。
 はっと、顔を上げた。
 そうだ。
 気儘之介の心の支度をさせるべく、今は時を稼ぐ時なのだ。
「上様。 あの、気儘之介は・・・」
 何を語ろう。
 その思いを頭に巡らせた時、初めて成政はそれまで弄んでいた掌(てのひら)の扇子をぱちん、と畳んだ。
「波和湯風太郎。そちに一つ、聞きたい事がある」
「は・・・?あ、あの、何なりと」
 先手を取られ、困ったように再び風太郎は、平伏をした。
 ・・・こめつき虫のようにぺこぺこと、頭ばかりを下げている。
 我ながら芸がないとは思うのだが、こればかりは致し方がない。
「あれが、そなたの許へ参った時。何故屋敷に人を走らせなかった・・・?」
「は・・・・・・?」
 言われて・・・風太郎。
 そのような事を、思いつきもしなかった自分を・・・思った。

 考えてみれば気儘之介の事を、藩主の御落胤と知っていた風太郎なのである。
 藩に仕える者の務めとしてそのような事、思い付くのが当然ではないか・・・。
「は・・・っ、あの・・・」
 考えれば考えるほど、当たり前に思えてくる。
 何故、それをしなかったのか・・・。

 心の中で、竹馬の友と。
 上様の息子の身の上にならせられた・・・あの方との。
 気持ちの切り替えが、風太郎にはまだ全然出来ていなかったからだ。
「申し訳ございませんっ」
 ひれ伏した風太郎を迎えたものは、成政の激しい叱責であった。
「たわけ者っ!そなたっ、あれにはどのような者達が付き従っているのか、全く考えなかったのか・・・?」
「申し訳も・・・」
 自分自身の考えの至らなさに、風太郎も泣けてきた。 

「・・・あの者に逃げられ、もし、何か事が起きたら。そなただけの責任では、済まされぬ」
「・・・・・・・っ・・・」
「わしが止めたから良いものの。あれの世話をする役の爺が、その折には皺腹かっ斬ると言いおった・・・」
「申し訳ございませぬ・・・っ」
 畳に付いた指先で、痛いほどに爪を立てた・・・。
 気儘之介には、今は供が居る事・・・。
 何故に、気付けなんだ・・・・・・。
  畳に額を擦り付け、嗚咽を噛み殺す風太郎を・・・、成政は見た。
「顔を上げよ、風太郎っ」
 雷に打たれたように顔を上げた風太郎に、何を思ったのか、成政。
 いきなり手に持っていた扇子を、投げつけたものである。
 風太郎は、・・・・・・咄嗟に。
 頭で考えるよりも身が動き、首を傾ける事で、事無きを得た・・・。
 扇子は弧を描き、風太郎の顔のあった場所を通り過ぎ、畳の縁の上へと落ちていった・・・・・・。
 ぽとり、と。
 扇子の落ちた音で、風太郎は我に返った。
 何という事をしたのだろう・・・。
 自分は、この身にそれを受けるべきではなかったのか・・・。

 すぐさま振り返り、扇子を拾って、上様の方を風太郎は返り見た。
「あの・・・っ。上様っ」
 見れば成政、顎の髭を撫ぜながらもう怒る様子は見せない。
「・・・うむ・・・。一応は、やりおるのか・・・?」
 訳も判らず、風太郎は扇子を持ってにじり寄ろうとしたが、それを成政に止められた。
「よい。扇子ならもう一本、持っておる」
 そして再び、腰の扇子を取って、掌でぱちり、ぱちりと弄び始めるのであった・・・。
 風太郎は・・・、もう、どうしてよいのやらも判らぬ。
「そちはもう、一介の穀潰しではない。この波和湯の家の主なのだ。自覚を、せねばならぬぞ・・・」
 成政はまるで、溜息をつくような声で・・・そう言った。
「此度の事は、あれが悪いゆえ仕方がないが。・・・これからは、このような事があってはならぬ」
「は・・・」
「この家には、使用人も幾人かいる筈。そちには、その者達の生活をも背負っているのだと自覚せい」
 ・・・言われて風太郎、一言もない・・・。
 心の中で、里絵を思った。
 義父である、春重の事も思った。
 使用人であるお理世や、作造の顔も浮かんだ。
 風太郎が手酷い失敗を繰り返せば、この家は一体、どうなると言うのだ・・・。

 掌で弄んでいた扇子を、成政は再び閉じた。
「二度と、あってはならぬからな。波和湯」
「はは・・・っ」
「戒めの為に、その扇子。そちにやろう」
 そこで成政は、初めて里絵の容れた茶を一口啜った。
「・・・うむ。そちの嫁御はなかなか、茶を容れるのがうまいな」
「は・・・」
「本日戴いた味噌汁の味も良く、芋の煮っ転がしもなかなかに、良く出来ていた」
「・・・・・・はぁ」
 里絵の料理に文句をつけた事など、ただの一度もない風太郎である。
「・・・そちは料理上手の嫁を貰って、幸せ者じゃ。これよりは婿の務めを果たさねばならぬな」
「はぁ・・・?」
 風太郎は、上様の顔をまじまじと見た。
「・・・ばか者。子を作れと言っておるのじゃ。それも婿の、大事な務めぞ」
 そうして葉々(ぱっぱ)成政は、心から楽しく、それはそれは清々しい笑い声を立てたのだった・・・。

 下がって良いと言われて・・・、風太郎。
 泣きそうな思いを抱えながら、戴いた扇子を腰に差してもう一度平伏をした。
 武道礼であるから、それには上様を斬る意志はなし、と。
 鯉口は切らぬ態で左手から先に付き右手を揃えて胸から降ろすようにして・・・頭を下げた。
「・・・うむ。その姿は、さすがに武士じゃな」
 成政の満足そうな声を後に、まず足を活かして(爪先を立てる事)立ち上がり、2・3歩を後退って振り返り、障子の所まで摺り足で来た。
 そこで片膝を付いて両手で障子を開け
 敷居は踏まずに、その身を部屋より外に運んで、再度片膝を付いて上様を振り返り
 そして・・・片方の手の指先を軽く床へ付けて、上様に向けての会釈をした。
 この時もう一方の手は、必ず自らの腿の上に置く事はもちろんの事、そしてどちらの手の五指も揃えてある

「・・・あれを呼んでくれ。少し、説教をくれてやらねばならぬからな」
 成政の声に頷き、障子を閉めたものの・・・風太郎。
 友のこの後を思って、心でこっそり、溜息を付く。

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