・・・波和湯風太郎は、動揺していた・・・。
風太郎が気儘之介の身分を知ったのは、ここ数年の話である。
それまでは風太郎、気儘之介のことを同じ冷や飯食いと信じて疑わなかった。
上様の御落胤と知って正直、腰を抜かしそうになったほどである。
気儘之介は当時、ざっくばらんに自らの身分を打ち明けてから・・・こう言った。
「だからもうお前とも、あんまり遊べなくなっちまった。すまんな、風太郎」
そしていつものように、あはあはと笑って・・・波和湯家の入り婿の話を、持ちかけた。
喜んで良いのか、悲しんだら良いのか。
・・・風太郎は己の波打つような感情に、苦悶したものである。
身分を知ったからといって、二人の関係はそう変わるものでもなかった。
ただ、前のように会えなくなってしまっただけ・・・である。
だが風太郎は妻帯して、文字通り忙しくなってしまったので、寂しさを感じる余裕はなかった。
お役目にも付いたから、二人が仲良く通った道場にもそうは、通えなくなってしまった。
・・・そう。 二人が出会ったのは、通いなれた道場でだったのである。
それすら、安毛良(あっけら)藩藩主・葉々(ぱっぱ)成政候は、知っていた。
阿呂波(あろは)風太郎・・・。
それが、入り婿する前の風太郎の姓である。
風太郎の実家は、両親を早くに亡くした為にやむなく、長男が若くして家督を継ぐこととなった。
・・・ゆえに、長男は早くに妻帯をする事となったのである・・・。
話はトントンと運び、若くて美しい花嫁が阿呂波の家に嫁いできた・・・。
次兄は諦めるのが早い性格だったのか、とっとと商人(あきんど)の家に手代から入って、今も順調に出世をしている。
そして、残されて風太郎。
哀れにも齢六歳にして、小舅となってしまった。
若い嫁には早くも、次々と子宝の兆し・・・。
一人目が産まれて。
二人目が産まれる頃には、思い切って家を出ることも考えた・・・が、まだ自身が前髪の身。
子供過ぎて、どうにもならぬ・・・。
それでも子供なりにも必死に考え、取り敢えずは家に居なくても済む方法を思索する事となった。
とはいえ、その年代なので、行く所も限られてしまっている。
学業に心血を注ぐか、武芸にその身を捧げるか・・・。
二つに一つだったのである・・・。
この時思い切って勉学を選んでいれば、今こうして苦労することもなかった筈なのだが。
もしそうしていなければ、気儘之介とこれ程までに親しくなることもなかったであろう。
世の中とはなかなかに、上手く行かぬものなのである。
葉々成政候は、扇子を掌で弄びながら言う。
「・・・・・・どうして。何故それを私が知っているのかと、聞かぬのだ・・・」
「はっ・・・?」
聞かれて風太郎、呆然とした。
・・・もしかして。 聞いた方が、良かったのだろうか・・・。
無い知恵を寄せ集めて、慌てたように風太郎は、鸚鵡(おうむ)返しのようにその言葉を繰り返した。
「あのっ、何故・・・あのっ、私の元の姓をっ、ご存知なのでしょうか・・・」
口にして、ばかな・・・と自分の中で呟いてしまった。
もう少し言い様が他にないのか・・・。
自分の口数の足らなさに、我ながら腹が立つ。
・・・だが、成政候は風太郎のそのような気持ちも、まるで感じないようである。
「うむ。菜花(なばな)に聞いたのだ」
「・・・はぁ・・・。菜花様は息災なのでしょうか・・・」
「うむ。そちにも会いたがっておった」
「はぁ・・・」
菜花様とは。
言わずとしれた気儘之介の生みの母で、現在成政候の正室であらせられるお方である。
・・・昔はそんな事を知らず、いつも朝な夕な、飯をご馳走になっていたものだ。
「・・・風太郎は、里の芋が好きだと申しておった・・・」
「・・・はぁ・・・」
もはや、何といってよいのかよく、わからぬ。
そんな風太郎を前にして、呟くが如く、藩主が言う。
「・・・あれとは。正直あの件以降、会った事はなかった・・・」
「・・・はぁ・・・」
あの件とは。
・・・例の、気儘之介が産まれる事となった、あの件のことであろうか・・・。
「今一つ。顔も、あんまり覚えていなかった・・・」
それを聞けば、気儘之介が泣くな・・・と思ったが、風太郎は口には出さなかった。
「・・・・・正直、会うことが怖かった」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「正室になっても、話す事が何もなかった」
波和湯家の客間に、気まずい沈黙が淀んでいる・・・。
扇子を、ぱちん・・・と畳みながら、成政は言った。
「だからまず、気儘之介のことを聞いたのだ・・・。一応あれは、私の子ゆえ」
・・・気儘之介が聞いたら、泣いて喜ぶようなことを成政は平然と言う。
「・・・はぁ・・・。それで、一体何が・・・」
言いたいのかと尋ねかけた風太郎に、成政は苦い笑いを見せている。
「・・・まぁ。そんなに離れていてはわしも、ちと照れる・・・。近ぅ参れ」
照れられても・・・・・・。 半分泣きそうな気持ちを抑えながら、風太郎は座礼をする。
武士という者。
厳しい上下関係に、縛られている。
己の心のままに動くのではなく、上様のご命令とあれば即座に対処をしなければならない。
座礼をしてから、まずは足を活かす。
これは、座った状態から両の足のつま先を、まず立てる仕草を指す。
・・・座ったままの足では、すぐには次の行動に移る事がかなわぬ。
これは「死に足」といって、日本の武道では一番嫌われているものなのだ。
さて、活かした両の足の右を、半足(己の足のサイズが24センチならば、その半分の長さ;この場合では12センチという事)進め、そのまま立ち上がりながら前の足に後ろ足を引き付ける。
・・・この時に体がフラつくようでは、誠の武士とは言えぬ。
そして両の膝を少し屈伸したまま、頭の高さを変えず。
摺り足にて、上様にもう少し近づき、いい所で風太郎は袴を裁いて正座をした。
そして、もう一度座礼をする・・・。
「表をあげよ」
言うまでもなく。
上様からのお許しなしでは、顔を上げることも。
もちろん、部屋に入ることも叶わぬし、許しがなければみだりに近付くことすら出来ないのが、武士の上下階級というものである。
・・・風太郎は、重たい心を抱えながら・・・顔を上げる。