気儘之介が一人、湯殿で悶々としていた頃・・・。
風太郎の方はそれこそ、戦場のような賑わいであった。
里絵に事の次第を尋ねた処、・・・そこは里絵、やる事にぬかりはなかった。
まず、家の者には全く、成政候の身分を知らせてはいない。
主の客・・・としか、知らされていないのである。
・・・・・・どうりで。
下男も女中も、のんびりとしていた筈である。
あのお方の身分を教えてくれたという・・・馬の鞍は。
今は波和湯家の方で外して保管してあり、隣りには馬のみを預けてあるそうな。
・・・そして、予定としてはあのお方は、夜の内に帰る心積り・・・である事。
それに合わせて、馬の引き取る時間を何時にするのか。
はたまた、気儘之介と会わせるのは、どの部屋で行うのか。
・・・忙しく遣り取りをする内に・・・どうにか、風太郎の支度が整った。
上様の事も気に掛かるが、気儘之介の事も気になる。
つい、その名を口にした所で風太郎、すぐさま里絵に叱られてしまった。
「あの方よりもまずは、貴方様の方です。さぁ、いってらっしゃいませ」
里絵が、手を付いて・・・風太郎は夫婦の部屋から、波和湯家の客間へと送り出されてしまった・・・。
主の出で立ちとして、今日の風太郎。 袴を穿いて、腰には小刀のみを帯びている。
・・・風太郎は、客間の前まで来て一度大きく、深呼吸をした・・・。
そして丁重に、両の掌を・・・付いた。
「もし・・・。当家の主でござる」
「うむ。待っていたぞ」
風太郎は、障子に手を掛けた・・・・・・。
武士という者。
殿様と謁見をする時には、無論のごとくも作法がある。
・・・まずは、女子と同じように障子を開け閉めし(第5話『茶を持て』参照)、部屋に入ってすぐに挨拶をする。
それは正座で行うのだが、両足の指は重ねない。
そして両の膝の間隔は、拳一つ半位離しての正座である。
何故なら、もし武士が「両足の指を重ねて座って」いたら。
・・・一つになったこの足を、踏まれでもしては、たちまち身動きがとれなくなってしまうのだ。
両の足指を離してあれば、どちらかの足を抜き外して振り返り、相手を制する事も出来よう。
・・・それと、正座した時の両膝の間隔であるが。
双方対座をしていたとして、もし自分がその幅を広げ過ぎていては。
何かあった場合に(例えば交渉が決裂した時などに)、相手に己の金的(男性の急所)に一息に膝で乗られてしまっては、武士の一生の不覚であろう。
そして逆に狭すぎては、これは見た目にも武家の者らしくなく、窮屈な印象を与えてしまう。
・・・広げすぎず、狭すぎず。
だから大体、拳一つ半位の間隔と言われている・・・。
さて風太郎は、まずは袴を捌いて正座をする。
・・・この場合の袴捌きとは、まずは右の掌で左足から。
(右手を使えば武士は抜刀できぬ。ゆえにこれは、相手に危害を加えないという意味にも繋がる)
己の脹脛(ふくらはぎ)の辺りの袴の生地を、内から外へと軽く叩く事で折り曲げ、まずは左の膝を付き。
それから、同じ要領で右の脹脛の辺りを捌くとこれで、両膝を付いた事になる。
この様にして正座をすれば、袴の裾は膝から踝(くるぶし)の方までヨレる事なく、きれいな線を描いて収まるのだ。
・・・これとは別に、両の掌を使って同時に膝裏の生地を外から捌いて、左右同時に膝を付いて正座する方法もある。
風太郎は正座をし、まずは左手を自分の前に付く。
その後に、右手を左手の位置と合わせて付く。
・・・この時はかならず、両の五指を揃える。
そして、平伏をした。
この場合は、胸から降ろすようにして両の肘が床に付くまで曲げ、床と並行になるまで頭を下げる。
・・・すると、顔のすぐ前に両手がある事になる。
もしもこのまま上から頭を押さえ付けられても、この両手の隙間が鼻の位置にあるから呼吸は出来るし、また両肘をもって堪える事が出来るのだ。
・・・そして、床と並行な位置に顔を降ろす事で、己の真後ろ以外は視界が利く。
それは即ち・・・何か、事が起これば即、対処が出来るという事なのである。
そしてこの場合には、床と顔の位置が並行・・・という事は、上様からは、首筋は見えぬ・・・。
「・・・面を挙げよ」
上様の声に風太郎は、一度肘を伸ばす辺りにまで顔を挙げ、右、左と手を引いて軽く太股の上に置いた。
・・・この時肘は、突っ張りすぎず。
両の親指は必ず、人差し指の側に添えている。
言うまでもなく、親指は急所であるからだ。
親指を取られてしまっては、武士は刀も握れぬし、何も出来ぬ。
顔を挙げて風太郎、初めて藩主殿の顔をじっくりと見た。
・・・その顔は気儘之介に、似ている・・・ように見える。「そちが、阿呂波風太郎(あろは・ふうたろう)か・・・。いや、波和湯の家の婿になったのだったな。では今は、波和湯風太郎となったものか。うむ。そうなってそろそろ、一年を過ぎた頃か」
・・・言われて、風太郎。
心の動悸を、押さえながら・・・言った。
「恐れながら申し上げます・・・。上様は、もしや私の事を・・・」
葉々成政(ぱっぱ・なりまさ)は、掌の中で弄んでいた扇を、バチンと勢いよく閉じた。
「うむ、存じておる。ゆえに、気儘之介の行く先もすぐにわかった」
・・・これを、どう受ければ良いものか・・・。
風太郎の背に、じっとりとした汗が滲む。