大晦日が日、一日と迫る昨今ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。(注:2003年当時★)
こんにちは、山野亜紀です。
大掃除と窓拭きと、年賀状書きに追われる毎日・・・。
毎年いっそ止めてしまえたら・・・とか言いつつも、シコシコとこの年末行事に燃えてしまう・・・山野家であります★
そして世間様はどうかは判りませんが、昭和一ケタ産まれの母と、明治の女に育てられた・・・私こと山野亜紀ですが、この綿々と続く「日本の伝統」にはどうも、逆らえないようです。 (^_^)/~
さて今回の、このタイトルなんですが、それは・・・ある水曜日に行われた「殺陣のレッスン」から、始まるのでございます・・・。
さて水曜日の稽古の方は、どちらかと言えば初心者中心の稽古から始まります。
この拙い「はわゆHP(2003年当時は、殺陣のHPも少なかったのでした★)」を御覧になった方が幾人か、参加に来られるようになったのも水曜日の稽古からが多いようです。
初めに体操をして、その日によっては立居振舞(時代劇の所作の稽古)であったり、転がり方の稽古であったり。
無理や強制は致しませんが、自分のレベルに合わせて、参加をします。
・・・最近、側転の出来る方が少なくなりましたね・・・と、そんな事ではないのです。
初めの1時間は「みんなの為の稽古」でありますが、2時間目は、個人のレベルによって別れます。
・・・やはり初めての方は、稽古の初歩を。
これは例えば、刀に慣れて来ている方なら、刀法の基本である「10本組手」を。
何しろ、この組手をマスターさえしてしまえば、現場でまず大抵の立ち廻りをこなせる様になるというのが、林先生の持論です。
そして10本組手を卒業した方には、お楽しみ。
日によってですが、例えば「10人斬り」をやってみたり。
舞台形式であったり、テレビであったりと、林先生が人数に合わせて殺陣を振り付けて下さいます。
さてその日の稽古は、1対1の真剣勝負(!)
・・・つまり、一瞬にして決まる勝負の殺陣でありました♡
打手側は暗殺者であったり、河原の決闘のようなイメージのシーンであったり。
計4種の殺陣でありましたが、その中に「木の葉返し」という技が含まれておりました。
この技の名前は、刀法だけでなくて、飛行機の宙返りかなんかにも使われているみたいですね。 (゜_゜ )
文字通り、木の葉がくるっと返る間に斬られてしまう・・・というものです。
この技は刀法・10本組手より上級の組手「前後斬り」と「左右斬り」(各3本)ある内の、左右斬りにも取り入れられている技で、とても高度な技です。
抜き打ちで、相手の刀を受ける | そして、右から振り向きながら | 相手の右頸動脈に、斬りつける! |
左振向きで、振り返える流れで | 左足を下げて、納刀をする |
写真でお判りかと思いますが、まず相手が「右胴に水平抜き打ち」で斬って来る所を、自然体(体操で言えば「休めの姿勢」で、手は組まない★)から、左足を右足の斜め前に進めて(林邦史朗創始のステップ名では、左裏入身♡)相手の剣を、自分の刀を半分縦に抜き受けて(・・・この時、刀はまだ抜ききっていない状態なのがポイント♡)。
その足捌きのまま、右から振り返って抜刀して、相手の右頚動脈を水平に狙っていく・・・という技です。
そして相手に致命傷を与えたら、左足を引き、左から振り返りながら納刀をします。
●林先生はこの足捌きの注意を、何度も口にしました。
人の稽古を見ている時には、あぁ、左足を一歩出したら、そのままやるんだ・・・とは思ってもいても、いざ自分の番になると、思うままにならないのが世の中です。 (-_-;)
・・・つい、もう一歩を出したくなってしまうのですね。 (>_<)
ですがこの技は、たった一歩を踏み出しただけで、振り返り様に斬って・・・振り返った時にはすでに納刀をしている・・・というのが狙い♡
もう一歩を出してしまっては、駄目なんです。
林先生は更に、おっしゃいました。
「この技は、大垣藩にちゃんと伝わる、正木流の本物の居合なんだ」
・・・その時、私こと山野亜紀の心に、疑問が湧きあがりました・・・。
・・・・・・・大垣藩・・・って、何処・・・・・・?
仲間に聞いても、首を振るばかりです・・・。 (^_^;) (※注・・・美濃の国です。)
その時、私は・・・とある一言を、口にしたのです・・・。
「・・・でも藩に伝わる技なんだったら、それは御留流(おとめ・りゅう)だったのかも知れないね・・・」
その時の、仲間の反応って・・・。
「・・・・・・はぁあっ? 乙女流っスかぁ・・・・・・?」 (-_-;)
・・・そうは言っても、私だってそう威張れたものではありません★
御留流なるものを初めて知ったのは、ほんの7・8年くらい前の事だったでしょうか・・・。
当時通っていたタレント養成所が、通いなれた新宿からなんと(!)移転してしまったのです。
・・・今度の場所は、目白。
しかも高田馬場からも、目白からも大体同距離と言う立地条件でありました。
●・・・取り敢えずは、何でも試してみるという友人と二人。
行きは、目白駅から。
帰りは、高場の馬場から帰ってみる事にしたのです・・・。
イヤー・・・、その時の衝撃って・・・・・・。
何でたかが住宅に、こんなデッカい木が何本も植わってんのーっっ??? ・・・・・・とか。
もう、こりゃ洋館だよー。
一体どんな人が住んでんだよー・・・・・・とか。 (そりゃ、金持ちだって。 ^_^; )
紆余曲折が、ございました・・・。
「昔から目白に住んでいるという、知り合い」に聞いてみたところ、もちろん裕福な方が多く住む土地柄ではあるという事ですが・・・もう一つ。
この辺りは、「御留山」だったのだ・・・そうなのです(!)
この「おとめ山公園」については、こちら。
・・・・・・でも。こんなリンクを貼るのって、私くらいですかね・・・★ (^_^;)
現在は公園として残されているそうですが、昔は「御狩場」だったのですね・・・。
●今回、面白がって調べてみたのですが、イヤー出るわ、出るわ・・・。この「御留」シリーズ★
藩外不出とされていた武術は、もちろん(!)
・・・たとえば「御留浜(おんとめ・はま)」であるとか、・・・要するに「藩主用の食材を専門で調達する漁港」という意味なので、庶民用には解放されてはおりません(!)
仙台藩では、ここで捕れる食材の総てを「藩主の食事用」か、「贈答用の物」として扱っていたのだそうです。
・・・それでも長崎貿易が盛んな頃には、アワビやなまこを(長崎藩が転売という手法で★)御留浜で捕れた物でも、海外には輸出をしていたんだとか。 (^_^;)
そして不漁な時には、いくら江戸幕府から求められても、藩主の食事用や贈答用の物の方が優先(!)されました。
領外移出の場合には、キチンと請負人が決められていたのだそうで、請負人以外の移出は認められていなかったのだとか★
また、御留窯(おとめ・がま)、御留紙、御留色など。
ようするに、そこ専用・・・という意味にあたるのですが。
たとえば御留色は、歌舞伎の義太夫の肩布紹介のHPで見つけました。
市川の家の御留色の肩衣は、市川家以外の者は着てはならない・・・という、まぁ・・・暗黙の了解とでも言いましょうか。
そういうのがかつては、あったそうなんです。
・・・ですが今では余り、そんな事を言う方もなくなった・・・と紹介をされておりました。
色々、時の移り代わりもあるようです。
御留流については、またいつか。それでは皆さま、良いお年を!