ポカリ、ポカリと拳骨の応酬があり。
気付いた時には風太郎と気儘之介二人、共に台所に倒れていた・・・。
激しい一発がお互いに炸裂したものか・・・。
一瞬、気を失ったようである。
気儘之介が気付くと、目の前に見た事のあるような顔が・・・見えた。
その顔とは、今現在で気儘之介が一番見たくないと思っていた・・・顔だった。
思わず気儘之介は起き上がろうとしたが、浴びるように飲んでいた・・・酒である。
そこへ風太郎との大立ち廻りを演じたものだから、すっかりと腰抜けになってしまっていた。
手を付こうが、足を伸ばそうが、何としても力が入らぬ・・・。
風太郎が成政に気付いて、台所から土間まで転げ落ちるように飛び降りてまず、平伏をした。
その隣で・・・今は里絵。
こちらも、慌てたように板の間から飛び降りて、主人より深く頭を垂れている。
「申し訳ございませんでしたっ、上様のご子息をこのような・・・」
夫婦二人して、口々に同じ事を言っている。
・・・そんな二人を、そしてこれをどうしたものか・・・?
安毛良(あっけら)藩主・葉々(ぱっぱ)成政は、あきれたように・・・。
つくづくと、己が息子を見つめて呟いた・・・。
「・・・一体、何をやらかしているのだ・・・お前は」
言われて・・・気儘之介。
悔しいが指一本、力が入らない。
頭から手桶で一杯、水を掛けられ。
そのまま、再び風呂に放り込まれてしまった・・・気儘之介である。
その心の中は絶対に、これだけは見せたくなかった・・・その姿を。
実の父親に、しみじみと見せてしまったという後悔で・・・一杯である。
「無念・・・・・・」
さすがの気儘之介も、これ以外には言葉が出ない。
しかも自分のせいで、幼い頃からの友が再び上様の叱責を、買ってしまっている。
・・・己が藩主の息子に手を上げてしまった訳だから、風太郎の行いは、身分を越えた越権行為であった事になる。
「先程あれほどに、言っておいたものを・・・」
「大変、申し訳ありませんでしたっ」
ひれ伏す風太郎のせいではない、と気儘之介は言いたかったのであるが。
口をついて出た言葉は、なんと。
「ひひふぇ、ふうらおぅのえいえは・・・」
という、日本語を遠く飛び越えたものであった・・・。
「気儘之介、いい加減にせよっ!」
言われてザブリと、体の底から冷えるような水が掛けられていた・・・・・・。
「はぁ・・・・・・」
いくら極楽トンボの気儘之介でも、この度ばかりは、溜息ばかりが口を付く。
水をたらふく飲んで、汗にして酒を抜こうという秘策であるが・・・それにしても。
「苦手なんだよなぁ・・・俺」
湯船の中で、頭痛を覚える気儘之介である。
・・・まさか、こんな所まであの男がやって来るなんて。
気儘之介、胸の中でその言葉ばかりを繰り返している。
「里絵殿もなぁ・・・、驚かれたことだろう」
風太郎など、あの男の前でひれ伏してばかりいる。
・・・自分が、勇気を持って挨拶をすれば良かったものを。
つい、あの男と相対するのが嫌さに、酒に逃げてしまっていた・・・。
武士にあるまじき行いであるが、あの男とは、どうしても。
どうしても向き合いたくなかったのだから、仕方がない。
だがこれでもう、逃げたくても・・・逃げられぬ。
気儘之介は己自身を叱咤激励しながら、どうやら湯船から立ち上がった。
「・・・気儘之介、参りました」
「うむ、入れ」
声を掛ける前に、廊下の陰でこの言葉を何度も繰り返して、練習をした・・・。
実父の叱責を買うのは今や、判りきっていると言ってよい。
だがその前に、自分の気の弱さをあおる様な・・・声の震えを止めようと思った、気儘之介である。
3度練習をしてようやく、まともに声が出た。
・・・何しろ実の父とはいえ・・・気儘之介。
この男と会う事など今でも、数えるほどでしかなく。
言葉を二人きりだ交わしたことなど、さらに少ない。
作法の通りに気儘之介は、部屋の外で挨拶をした。
この折は片膝、片手を軽くつけて襖の前で軽く、会釈をする。
あの男の言葉どおり・・・に、襖を開けて部屋に入り、平伏をした。
気儘之介の心の中では、しつこい程に「あの男」と呼ばれている・・・この男。
葉々成政候は、相も変わらずに扇子を弄んでいたが、息子を見ると勢い良く扇子を閉じた。
「近く参れ、葉々気儘之介」
「・・・はっ」
嫌だが、致し方がない。
この男に逆らえる身分を、今の所気儘之介は、持ち合わせていないのだ。
声だけは元気がいいが、本心ではげんなりとしながら。
それでも作法の通り、立ち上がって摺り足をしながら、いま少し寄って正座をする。
「何をしている、もそっと近く参れ、この愚か者」
げぇーっ・・・。
気儘之介の胸の中を、雄叫びが激しく、こだまをする・・・。
そんなに近く寄らなくても、話は済む。
言いたいだけ言っていっそ、帰ってはもらえまいか・・・。
様々な悪態が胸の内を駆け巡るが何しろ、相手は安毛良藩の殿様であり、実の父親である・・・。
気儘之介に、選択の余地はなかった・・・。
もう、どうにでもなれという心持ちで、気儘之介は唇の端を上げてみた。
「お心のままに・・・成政様」
「ばかもの」
・・・・・・久し振りに聞いた言葉が、たったこれだけ。
いかな気儘之介でも、かなりキツイものがある。
成政は、息を吸って再度こう言った。
「側近くまで参れ、不肖の息子よ」
ばかもの、不肖、おろかもの。
一体今日一日で、どれ程の罵声が自分に、掛けられるのであろうか・・・。
気儘之介は、意を決して両の足を生かす(爪先を立てる)。
そして片膝を立てて、前に出し。
その踵に後ろ足の踵を、引き付ける。
そして前の方の足の膝を畳に付け、此度はもう一方の足を前に出して、その踵に後ろ足の踵を引き付けた。
この狭い部屋では、これ程の回数で上様の側近くに来てしまう・・・。
だが、広い江戸屋敷では、もっとその回数は多かった。
この折、頭の高さをなるべく水平に揃える。
胸は、張る。
そして両の手の五指は、足の付け根の辺りで勿論揃えている。
膝行を終えて・・・気儘之介。
腹を決めて、平伏をした・・・。
その頭を成政の扇子がいきなり、はたいた。
「痛い」
つい、気儘之介も声が出てしまう。
それを聞きとがめて、成政が言った。
「痛いじゃと?この、愚か者めが。・・・面を、上げてみよ」
「・・・お許し下さい、成政様」
「いいから面を、上げてみよと申すに」
平伏をしているとまた、ポカポカと扇子ではたかれそうなので、仕方なく・・・気儘之介は、作法の通りに面を上げた。
目の前に、あの男の顔が在る。
「こりゃ、今日は一体、何をしておったのだ」
「はぁ・・・」
いくら上様にでも、一日の行動を悟られてしまうのは面白くない・・・気儘之介である。
「どうせそれ、幼馴染の赤提灯の所へでも行っていたのであろう」
「・・・・・・・・・・・」
「その前は道場に行って、風太郎に会うたな」
「・・・・・・・・・」
「菜花(なばな)が、どうせその辺りの事であろうと、言っておったわ」
・・・菜花様とは現在、安毛良藩藩主の正室であり、気儘之介の産みの母親である。
気儘之介はこの母の細腕一本で、17の年まで育てられてきたという訳である。
・・・故に。この息子の行動範囲を菜花は、知り抜いていた・・・と言ってよい。
傍らに、そんな立派なアンチョコがあるのでは、気儘之介としても実にやりにくい。
「申し訳ございませんでした」
もう平伏をする気力もなくして、うな垂れてしまった・・・気儘之介である。
腕組みをして、成政は唸った。
「お前ももう少し、大人になってだな。脱走は、心得てやるが良い」
「は・・・・・・・?」
葉々成政候はまたも、こう言った。
「お前はやり方が下手だ。はっきり言って頭が悪すぎる」
・・・気儘之介としては、予定外の事の成り行きになった訳だが。
それが果たして、喜ばしい・・・事なのか。
今の気儘之介には、察しが付かない。