「表をあげよ」
・・・上様に言われて、風太郎。
重い我が心を励ましながら、勇気を持って顔を上げた。
近く寄れと言われてもこの場合では、上様のすぐ側にまで、いきなり身を寄せる訳ではない。
この部屋は十二畳の和室だが、先程は部屋の入り口から。
この度は、部屋の真ん中辺りまでしか、上様には近寄ってはいない。
・・・それでも風太郎から見ると、上様の顔が物凄く近くにあるように思える・・・。
平素ならば風太郎の身分程度で、こんな事はありえない。
「あれ、とは。あの事件より一度も、会ってはいなかった」
あれ・・・とは。
言わずと知れた藩主・葉々(ぱっぱ)成政候の正室になられたという、菜花(なばな)様のことであろう。
つまりは風太郎の竹馬の友である、気儘之介の母親のことである。
上様は、まだ若き日であったおのれの所業を、淡々と語った。
菜花は、百姓の娘である。
百姓とはいっても名主の娘で、当時の年は15歳。
花も恥らうような、可憐な少女であった・・・。 もちろん、当時は数え年であるから、現代風に言えば14歳ということになる。
産まれ年の年齢を1歳と数えて、正月が来れば、どんな身分の者でも等しく1つ年をとるという習わしである。
成政候は当時は、江戸では治水工事の学問をして、地元に帰ってからはその実践をするという行動派。
石高を上げるために、その努力を惜しまなかった。
・・・それだけ、何年か不作続きだったのである。
菜花の実家は、江戸を少し外れた山の奥の方に今もある。
ある日の成政、体調を崩してしまい、名主の家にて厠(かわや)を借りて・・・。
そのままとうとう、10日ばかりも寝込んでしまった。
その看病をしたのが、幼き日の菜花である。
まさか、そんな子供に手を付けられるとは・・・。
菜花の両親は、事の次第を知って驚いたのだが、その・・・後の始末がいけない。
蓋を明けてみれば、菜花の身分がいかにも低い。
という事で、上様はいくばくかの金を渡してそのまま、帰ってしまったのである。
まぁ、何にしても上様の手が付いたのは、名誉なことではある。
当座の資金も出来たし、まさか、身ごもるような事にはならぬであろう・・・。
菜花もその内、日々の忙しさに取り紛れてそうした出来事を、忘れてしまうに決まっている・・・。
・・・そう両親は高を括っていたのだが、その願いはむなしく、菜花の腹は膨らみ始めたのだった。
狭い村のことで、菜花もその事実に驚いたが、その家族も生きた心地はしなかった。
上様の御手付きでありながら、側室に上がる事も許されずに捨てられた女・・・。
菜花には、15の年にしてそんな汚名が付けられてしまったのだ。
成政はそんな事になっているとは、全く知らなかった。
国に戻ってからは、いつものように政務に励んでいた。
・・・菜花の両親も時間が経ってしまっているのでもう、殿様に娘のことで、言い立てる事をしなかった。
その当時のましてや農民が、上様に訴えるなぞ。
・・・・・・その時代に生きる者達なら、思い付きもしなかったに違いない。
結局、菜花は月足らずで気儘之介を産んだ。
・・・酷い難産で。
薬も足らず、菜花は里で苦しみ抜いて出産を終えた。
・・・・・・赤子は、男の子であった。
菜花が子を産んだと、初めて知ったのは成政の側近であった。
それもたまたま、近くを通ったので立ち寄っただけのこと。
・・・いくらかその者、さすがに菜花のことを、不憫に思っていたのであろう。
もしそんな事を、その者が思いつかなかったら気儘之介は一生、日陰の身であったはずである。
だが幸か不幸か、気儘之介の存在は、上様の耳に入った。
成政は驚いたが、真実自分の子かどうかを確かめもしたし、産まれた者が男子である事も知ったわけである。
そして心の中で・・・深く、唸った。
当時の成政の正室は、病弱だった。
ようやく産まれた男子も一人しかおらず、母親の体質を受け継いだせいか病弱である。
せっかく生まれた男の赤子、そのままにしておくには惜しい。
・・・しかし名主とはいえ、百姓の子では・・・・・・。
湯殿の端女(はしため)に産ませた・・・とか。
側室になった者に、身分の低い者が全く居なかった訳ではないが、それにしても身分が低すぎる。
・・・成政は、そんな者に手を付けた自分の事を別に、恥とは思わなかったが、困ったものだとは思っていた。
「ふーむ、男であったか・・・」
そして思い切って、将来を考えた末にその子を、自分の子として育てるような手段を取る事にした。
・・・・・・それが菜花と気儘之介二人、江戸屋敷の側近くの長屋に住まわせる・・・ということだ。
そして折を見て、二人を引き取る算段、取ろうではないか。
それを初め、菜花は突っぱねた。
産後の日達が悪く、具合が悪くて。
子を産んでからは、床に伏せりがちな日を送っていた当時の菜花である。
菜花の両親は当惑したが、これで見事に娘が側室にでもなれば、村人たちを見返せることになる。
・・・身分の低い娘でも、上様はちゃんとしてくれると言っているのだ。
そうすれば菜花の家の格は上がり、今までのように身を小さくして生きていかなくても済むのである・・・。
菜花は、このままでいいと言ったが。
もうはや、家族の意見が決まってしまい、自分の事なのにそれを、くつがえす事も出来ぬ・・・。
そして成政の側近は、菜花に深く同情をしていた。
したが上様のご命令では、・・・その側近。
その仕事は、どうしてもやり遂げなくてはならぬ・・・。
その当時にしては異例ではあったが・・・その側近。
すぐに城に入れる訳でもなかったからではあろうが、何度もその村に足を運んでは、薬を運んだり。
何くれとなく世話を焼いては少しずつ、菜花の心を解きほぐしていった・・・。
菜花もその年で、たった一人息子を連れて江戸に出るのが、なにしろ不安であった。
さて成政は、たった一度だけ、その村を訪れた事がある。
・・・あるにはあったが、その折には菜花は実は、村に居ない。
・・・産後の日達が、余りにも悪かったので、家の者がついて湯に行かせていたものである。
成政は菜花の家族と話し、体を癒やしてから江戸に行かせるよう言って、ほどなく村を出た。
・・・しかし菜花は、ぐずぐずと村に残っては日を過ごし。 結局気儘之介が12の年になって、やっと安毛良(あっけら)藩の江戸屋敷にほど近い、小さな長屋に移り住む事となる。
風太郎が、気儘之介と知り合ったのは更に、ずっと前のことにある。
上様の話は重く、風太郎は胸が詰まりそうになった。
・・・菜花は、風太郎が子供だったせいか、そんな事があったとはおくびにも悟らせない女であった。
明るく、朗らかで。
しっかりとした母親の姿であった。