風太郎が厠から戻ってみると、気儘之介が炙(あぶ)った魚を前に、涙ぐんでいた・・・。
「うぅう・・・・・・っ」
すかさず後手で障子を閉めて、風太郎は座布団に座った。
・・・こんな所を、もしお艶にでも見られたりしたら。
気儘之介は、下の連中のいい笑い者になってしまう。
「・・・どうしたのだ、気儘之介。沙魚(はぜ)が一体、どうしたというのだ・・・」
風太郎は勤めて平静を装いながら、気儘之介に酒を勧めた。
沙魚。
・・・庶民の代表的な食べ物である。
これをちょと日に干して炙ったものは、気儘之介の好物であった。
勿論、お楽の心づくしでもある。
「風太郎・・・。魚だ」
うん、と風太郎は頷いた。
「炙りたての、あつあつの魚なんだ」
「うむ」
「俺はこれに会いたくって・・・」
漬物だったら。
箸で食べるよりも気儘之介は、指先に摘んで食べる事を好む。
それを知っているからお楽は、今晩も二人に手拭いを貸してくれている。
その手拭いで、涙を拭い。
・・・気儘之介は、思いの全てを込めるように沙魚に、齧り付いた。
噛みしめながらも、溢れる涙は、押さえきれない・・・。
「・・・俺の分も食べていいから。・・・取りあえず、泣くな」
あきれ果てて風太郎は、自分の魚の皿を友の方に回そうとすると、それは止めて。
「出来たてを一皿、もうお楽に頼んである」
・・・気儘之介は、やはり。
この束の間の自由の中で、作りたての食べ物にこだわっていた。
・・・・・・随分と。
長居をしたようにも思っていたが、実際にはそうでもなかったらしい。
二人が腰を上げて、のんびりと下に降りてみた所、店にはまだ、半分くらいの客が残っていた。
お艶の出番はこれからであり、彼女は店の切り盛りをしながらも上手に、客の相手をしている。
客の殆どはもう食べたいだけ食べた後で、新しく肴を頼むことはせずに酒を飲んでいる。
調理場を覗いてみると、もうお楽は懸命に洗い物をしていた。
・・・源爺の店では、もうそこそこに客が引くと、肴の注文は余り来ない。
この時間から来る客はというと、どちらかというと酒だけというのが多いからで、そこでようやくに肴の作り手は、一息つけるのだ。
・・・そうして。
今まではお運び専門だったお艶が、今度は酒の相手をして・・・看板までを過ごすのだ。
源爺が居たならこの辺りで、さぁ、男三人で更にもう一杯・・・というところだが。
「・・・湯に行かせてるんじゃぁ、今夜は駄目だなぁ・・・」
自由の利かない身の気儘之介は、少し残念な顔をした。
お楽が、笑う。
「また来ればいいんだわ」
「それもそうだが。・・・そうも、いかんのだ」
「また、武者修行の旅にでも行くの、気儘」
お楽の声に、気儘之介はちょっと、黙った。
・・・実は江戸で暮らしている・・・とは、言えなくて。
長屋の者達にもみんな、気儘之介は遠方への修行の旅に出ると言って、別れを告げたのだ。
柄にもなく気儘之介が黙り込んでしまったので、風太郎はさり気なくその後を続ける。
「お役目で、余り自由に出来ないんだよ、なっ、気儘之介」
気儘之介は、仕方なさそうに頷いた・・・。
「そうなのぉ。・・・なんか、つまらないわ・・・」
江戸に暮らしながら、馴染みの店には顔は出せない。
自分の世話は全て出来るのに。 人の手を借りてでなくては、着物一つ着させてもらえない。
友人と膝を突き合わせて語り合いたいのに、もし藩邸で風太郎と会えても、距離をおいてでなくては語り合えない。
・・・・・・風太郎が言う。
「一番つまらないのはなぁ・・・。気儘之介なんだよ、お楽」
源爺の店を出て、二人は波和湯家に向かう。
風太郎にとって気儘之介の存在は主君筋に当たるのだが、波和湯の家は江戸屋敷の中にはない。
遠くもなく、近くもない場所に波和湯の家はあった。
「一回お楽の亭主を見てみたかったなぁ、風太郎」
気儘之介の声に、えっと風太郎が顔を上げる。
「店に居たじゃないか」
「うっ・・・」
「なんだ、気付かなかったのか。・・・ほら、洗い場のすぐ側で徳利を、舐めるように飲んでいた・・・」
「あぁっ・・・てぇ・・・。 えぇーっとぉ・・・」
記憶を手繰り寄せるのだが、何しろ今日の気儘之介はすこぶる上機嫌で、店の中など殆ど見てはいないのだ。
風太郎に、すぐに二階へ上げられてしまった・・・ということもある。
とにかく見知った顔に、声を掛けるのに忙しくて・・・。
実は初めて見る客など殆ど、気にもしていなかった。
「・・・なぁんだ・・・。失敗したなぁ・・・」
お気楽極楽な友に、風太郎は笑った。
「お前、お楽に絡んで。ずっと睨まれていたのに、気付かなかったのか」
「あれェ・・・。お楽ぅ、すまん」
思わず天を仰いで、手を合わせる気儘之介だった。
「ほら。猪井那町(ちょいな・ちょう)に大工の棟梁で、金五郎というのが居るだろう」
「あぁ。あの評判の」
「あの棟梁の下で、旦那は佐官をしているそうだ」
「・・・・・・へぇ」
金五郎といえば、腕が良くて仕事が丁寧だと、今評判の棟梁である。
「あの亭主は下戸で、一滴も飲めないんだそうだ。だからお楽の仕事が終るまで、ああやって待っているんだそうだよ」
「ヘぇ・・・って、どこで聞いたんだよ、風太郎」
「店に、熊がいただろう」
熊とは。
金五郎の所のではないが、やはり腕のいい大工である。
お楽の亭主とは昔、同じ棟梁の下で仕事をしたことのある仲だそうだ。
飲めない亭主に付き合って・・・というよりは、自分がただ飲みたくて。
よく付き合って、ここにやって来るのだという。
熊と風太郎たちは。
・・・これはかれこれ、四・五年位の付き合いの、やはりこの店で知り合った飲み仲間である。
「・・・なぁんだ・・・。熊も、早くに俺に教えてくれりゃいいのに」
ぶつぶつと続ける気儘之介に、風太郎は笑った。
「それを聞いて、止めようとしたのに。お前が、聞かぬからさ」
・・・と、その時。
風太郎は、道の向こうからやって来る人影に気が付いた。
向こうは武士。
・・・こちらも、武士。 共に、道の真中を歩いている。
武士というもの。
道で人と出会った時には必ず、互いに道を左に譲るものだ。
もしも互いに右に譲ってしまったら。
刀の鞘が当たって(武士は必ず左の腰に帯刀をするから)いらぬ不評を買うことになる。
だから道の先にいる者が知り合いであろうがなかろうが、まずは互いにそれとなく左へと譲るのだ。
・・・・・・風太郎がその時出会った者は、同じお役目(御祐筆役)で同僚の、東大幾之介(とうだい・いくのすけ)であった。
共に道を左に譲り、その場で会釈をした。
この会釈は勿論、背筋を伸ばして大体30度位の立礼である。
この時肘は緩く曲げて、堅すぎず柔らかすぎず。
掌を、足の付け根の辺りに添える。
会釈をする時には必ず、相手の目を見ながらするものだ。
視線を伏せてしまっては、急に相手に斬り付けられても対処が出来ないではないか。
武士の作法とは。
自然体でありながらも常に己の身を守る術を取り入れているのだ。
・・・挨拶を、終えて。
風太郎がそのまま・・・何気なくすれ違って、また道の真中へ戻ろうとした時に幾之介が、珍しくも声を掛けてきた。
・・・この男が、風太郎に声を掛ける事など、そうはない。
まともに平仮名すら書けない風太郎の事など、見限っているのだ・・・。
「波和湯。その連れの者は、何者だ」
・・・風太郎は、気儘之介と二人。
幾之介の方を、ゆっくりと振り返った・・・。