お江戸の作法教室

第六話 風太郎、道で人と出遭う(前篇)

 風太郎が厠から戻ってみると、気儘之介が炙(あぶ)った魚を前に、涙ぐんでいた・・・。
「うぅう・・・・・・っ」
 すかさず後手で障子を閉めて、風太郎は座布団に座った。
 ・・・こんな所を、もしお艶にでも見られたりしたら。
 気儘之介は、下の連中のいい笑い者になってしまう。
「・・・どうしたのだ、気儘之介。沙魚(はぜ)が一体、どうしたというのだ・・・」
 風太郎は勤めて平静を装いながら、気儘之介に酒を勧めた。

 沙魚。
 ・・・庶民の代表的な食べ物である。
 これをちょと日に干して炙ったものは、気儘之介の好物であった。
 勿論、お楽の心づくしでもある。
「風太郎・・・。魚だ」
 うん、と風太郎は頷いた。
 「炙りたての、あつあつの魚なんだ」
「うむ」
「俺はこれに会いたくって・・・」

 漬物だったら。
 箸で食べるよりも気儘之介は、指先に摘んで食べる事を好む。
 それを知っているからお楽は、今晩も二人に手拭いを貸してくれている。
 その手拭いで、涙を拭い。
 ・・・気儘之介は、思いの全てを込めるように沙魚に、齧り付いた。
 噛みしめながらも、溢れる涙は、押さえきれない・・・。
「・・・俺の分も食べていいから。・・・取りあえず、泣くな」
 あきれ果てて風太郎は、自分の魚の皿を友の方に回そうとすると、それは止めて。
「出来たてを一皿、もうお楽に頼んである」
 ・・・気儘之介は、やはり。
 この束の間の自由の中で、作りたての食べ物にこだわっていた。

 ・・・・・・随分と。
 長居をしたようにも思っていたが、実際にはそうでもなかったらしい。
 二人が腰を上げて、のんびりと下に降りてみた所、店にはまだ、半分くらいの客が残っていた。
 お艶の出番はこれからであり、彼女は店の切り盛りをしながらも上手に、客の相手をしている。
 客の殆どはもう食べたいだけ食べた後で、新しく肴を頼むことはせずに酒を飲んでいる。
 調理場を覗いてみると、もうお楽は懸命に洗い物をしていた。

 ・・・源爺の店では、もうそこそこに客が引くと、肴の注文は余り来ない。
 この時間から来る客はというと、どちらかというと酒だけというのが多いからで、そこでようやくに肴の作り手は、一息つけるのだ。
 ・・・そうして。
 今まではお運び専門だったお艶が、今度は酒の相手をして・・・看板までを過ごすのだ。

 源爺が居たならこの辺りで、さぁ、男三人で更にもう一杯・・・というところだが。
「・・・湯に行かせてるんじゃぁ、今夜は駄目だなぁ・・・」
 自由の利かない身の気儘之介は、少し残念な顔をした。
 お楽が、笑う。
「また来ればいいんだわ」
「それもそうだが。・・・そうも、いかんのだ」
「また、武者修行の旅にでも行くの、気儘」
 お楽の声に、気儘之介はちょっと、黙った。

 ・・・実は江戸で暮らしている・・・とは、言えなくて。
 長屋の者達にもみんな、気儘之介は遠方への修行の旅に出ると言って、別れを告げたのだ。
 柄にもなく気儘之介が黙り込んでしまったので、風太郎はさり気なくその後を続ける。
「お役目で、余り自由に出来ないんだよ、なっ、気儘之介」
 気儘之介は、仕方なさそうに頷いた・・・。
「そうなのぉ。・・・なんか、つまらないわ・・・」

 江戸に暮らしながら、馴染みの店には顔は出せない。
 自分の世話は全て出来るのに。 人の手を借りてでなくては、着物一つ着させてもらえない。
 友人と膝を突き合わせて語り合いたいのに、もし藩邸で風太郎と会えても、距離をおいてでなくては語り合えない。
 ・・・・・・風太郎が言う。
「一番つまらないのはなぁ・・・。気儘之介なんだよ、お楽」

 源爺の店を出て、二人は波和湯家に向かう。
 風太郎にとって気儘之介の存在は主君筋に当たるのだが、波和湯の家は江戸屋敷の中にはない。
 遠くもなく、近くもない場所に波和湯の家はあった。
「一回お楽の亭主を見てみたかったなぁ、風太郎」
 気儘之介の声に、えっと風太郎が顔を上げる。
「店に居たじゃないか」
「うっ・・・」
「なんだ、気付かなかったのか。・・・ほら、洗い場のすぐ側で徳利を、舐めるように飲んでいた・・・」
「あぁっ・・・てぇ・・・。 えぇーっとぉ・・・」
 記憶を手繰り寄せるのだが、何しろ今日の気儘之介はすこぶる上機嫌で、店の中など殆ど見てはいないのだ。
 風太郎に、すぐに二階へ上げられてしまった・・・ということもある。
 とにかく見知った顔に、声を掛けるのに忙しくて・・・。
 実は初めて見る客など殆ど、気にもしていなかった。

「・・・なぁんだ・・・。失敗したなぁ・・・」
 お気楽極楽な友に、風太郎は笑った。
「お前、お楽に絡んで。ずっと睨まれていたのに、気付かなかったのか」
「あれェ・・・。お楽ぅ、すまん」
 思わず天を仰いで、手を合わせる気儘之介だった。
「ほら。猪井那町(ちょいな・ちょう)に大工の棟梁で、金五郎というのが居るだろう」
「あぁ。あの評判の」
「あの棟梁の下で、旦那は佐官をしているそうだ」
「・・・・・・へぇ」
 金五郎といえば、腕が良くて仕事が丁寧だと、今評判の棟梁である。
「あの亭主は下戸で、一滴も飲めないんだそうだ。だからお楽の仕事が終るまで、ああやって待っているんだそうだよ」
「ヘぇ・・・って、どこで聞いたんだよ、風太郎」
「店に、熊がいただろう」
 熊とは。
 金五郎の所のではないが、やはり腕のいい大工である。
 お楽の亭主とは昔、同じ棟梁の下で仕事をしたことのある仲だそうだ。
 飲めない亭主に付き合って・・・というよりは、自分がただ飲みたくて。
 よく付き合って、ここにやって来るのだという。

 熊と風太郎たちは。
 ・・・これはかれこれ、四・五年位の付き合いの、やはりこの店で知り合った飲み仲間である。
「・・・なぁんだ・・・。熊も、早くに俺に教えてくれりゃいいのに」
 ぶつぶつと続ける気儘之介に、風太郎は笑った。
「それを聞いて、止めようとしたのに。お前が、聞かぬからさ」

 ・・・と、その時。
 風太郎は、道の向こうからやって来る人影に気が付いた。
 向こうは武士。
 ・・・こちらも、武士。 共に道の真中を歩いている。

 武士というもの。
 道で人と出会った時には必ず、互いに道を左に譲るものだ。
 もしも互いに右に譲ってしまったら。
 刀の鞘が当たって(武士は必ず左の腰に帯刀をするから)いらぬ不評を買うことになる。
 だから道の先にいる者が知り合いであろうがなかろうが、まずは互いにそれとなく左へと譲るのだ。

 ・・・・・・風太郎がその時出会った者は、同じお役目(御祐筆役)で同僚の、東大幾之介(とうだい・いくのすけ)であった。

 共に道を左に譲りその場で会釈をした。
 この会釈は勿論、背筋を伸ばして大体30度位の立礼である。
 この時肘は緩く曲げて、堅すぎず柔らかすぎず。
 掌を、足の付け根の辺りに添える。
 会釈をする時には必ず、相手の目を見ながらするものだ。
 視線を伏せてしまっては、急に相手に斬り付けられても対処が出来ないではないか。
 武士の作法とは。
 自然体でありながらも常に己の身を守る術を取り入れているのだ。

 ・・・挨拶を、終えて。
 風太郎がそのまま・・・何気なくすれ違って、また道の真中へ戻ろうとした時に幾之介が、珍しくも声を掛けてきた。
 ・・・この男が、風太郎に声を掛ける事など、そうはない。
 まともに平仮名すら書けない風太郎の事など、見限っているのだ・・・。
「波和湯。その連れの者は、何者だ」
・・・風太郎は、気儘之介と二人。
幾之介の方を、ゆっくりと振り返った・・・。

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