林邦史朗が、50年以上の長きに渡る殺陣師人生で研究し、整理して自ら纏め上げたものが「林流護身術」です!
山野が聞いた処では過去、林の下に「護身術の親睦団体を考案・発起を志した方」が訪ねて来たそうで、その方と行動を共にしていた時期もあったようですが、折り合いがつかず、林は独自で活動をするようになったのだそうです。
この時点での「林流の護身術」は、「護身のテクニック的な部分と少しの体術、試合方式で行う短棒術」が中心であったようです。
さて1982年(林・43歳)にオランダで林は、「自身が創始の武劇公演」を行います。
その折には林の弟子で「新聞記者をされてる方の奥方であったジルさん」に公演に同行して戴いたのはもちろん、旅先でも英会話などで、とてもお世話になったのだそうです。
このジルさんの紹介で、その翌年には「聖心インターナショナルスクール」で学生相手に「林流護身術」も林は伝授しています。
・・・ところがジルさん、旦那様の転勤で再び海外に戻ってしまい、それを期に林も大学から離れる事になりましたが、1991年に「国際護身術振興会(IADA)」を設立。
林は理事長ならびに、最高師範に就任を致しました。
ところが林も忙しく、専用の稽古着は作ったものの、当時使用していた「試合用の短棒と顔面を護る面」が使い勝手がどうにも悪くて、林曰く、どうしても気に入らなかったんだそうです。
そこで山野に「フェンシングの面を販売している場」を探させて、それをもとに自身でデザインを考案。
海外に発注して、ようやく完成させたのが現在の面と棒です
・・・グラスファイバーに(危険防止の為に)ウレタンを巻いた物だったのですが、強く握りすぎたりするとウレタンがすぐに傷んで、ボロボロになってしまうので、どうしたものかと思い悩む日々が続きました。
これには後年、山野が思い付いて、ウレタン部分を「エアー緩衝材」で代用するようになりました。
これなら「当たっても、それほど痛くありません」し、「顔面への突きだけは反則」というルールで、この面と棒でたくさんの大人と子供達が勝負を挑みました。
2001年には、林と面識のあった壮神社出版から「殺陣師見参!」の書籍と、「護身テクニック(初級・上級)」がビデオ出版されます。
書籍でも「林流護身術の記事」が取り上げられ、この頃は林道場にも、当時小学生であった林先生のお孫さんの他に、たくさんの子供達が通っていました。
ところで林は、1999年(林・60歳)に「前立腺がんで手術を受けて」います。
この時、「もし自分が生きて戻れたなら、今まで一通り勉強はしていると思うけれども、太極拳をもう一度学び直したい」と考え、多聞内神道(太極拳長江会)の長尾豊喜先生に相談をします。
・・・双方、多忙の身であったので、出来ても月に1度の頻度ではありましたが、互いの道場を行き来して、林は長尾先生から81式太極拳と太極刀を学び、その稽古は亡くなる少し前まで続いていました。
林という人は、新しい技を知ると、体得するまでは諦めず、稽古場に足を運ぶ弟子が「たくさんの実験台」となりました。
林流護身術も、技の数がどんどんと増していきましたので、2008年にその教えを広めるべく、林の意向で「真剣試斬と護身術の体験ワークショップ」を山野と始めます。
・・・当時は「護身術という名称」が芳しくなく、山野と林で考えて「忍者体術」として開催していましたが、30回行っても集客が難しく、またもや山野の提案で、
「林流は、どんな名目で行っても体術(護身のテクニック)は含まれているのだから、殺陣の体験ワークショップにしてみましょう」
との事で内容を変更したところ、人も増えて賑やかになりました。
その後、2011年に「311」を迎えて、それを過ぎた頃には「たくさんの技が整理されて、林流護身術は今の形になり」ました。
その名称も「忍者体術」から「侍とニンジャ体術」など、変りはしましたが、「どのようにすれば、皆さんが楽しく気軽に遊びに来てくれるのか」をモットーに林と山野は活動を続け、林の死を機にこのワークショップも閉鎖となりました。
最後に、林が書き残した文面にもあるのですが、林は幼少の折に戦争の経験があり、空襲も幾度も経験しています。
こうして「相手に手を掴ませて体得する護身術」が巷で広く行われるようになったなら、世の中から戦争がなくなるのではないか・・・。
そんな思いもあって、林流の護身術を世に広めたいと最期まで願っていたようです。
このHPでは、林邦史朗の研究成果や稽古様式の目録を公開し、映像や文献などを整理した上で必要な方には有償で申し受け、後世に伝える事を目的の一つとしています。